年の瀬とともに思い出すこと#1

今年は河西さんが亡くなられました。
私は先生と9回中国にご一緒しました。
日中のママさんバレー交流旅行で
北京、上海、蘇州、杭州、桂林、西安などを旅しました。
(杭州にて)
画像

(西湖の遊覧船で中国元国家選手と談笑する河西さん)
画像


まだ自転車専用道路が広くとってあった時代
トイレが心配でポケットティッシュをたくさん持って行った。

初めて中国に行ったのは上海だった。
共産主義の中国の人民は理想に燃えて生きていると思い込んでいたから
現実を見たときショックだった。
一晩泣いた。
ホテルやレストランもまだバックミュージックなどなかったから
音楽に飢えてしまった。
これがかえって旅の思い出をいろいろ作曲するようになった。

河西さんは西安に行った時から、最後のご挨拶で涙をながすようになった。
釣魚台に泊まるときなど、前もってオバケが出るらしいなどとママさんに話しておいて
夜中こっそりママさんの部屋のドアをノックしたりして、オチャメをしていた。
先生はお肉が全くダメだった。お肉は一つずつ取り出していた。
ソラマメの揚げたのが大好物

今も毎週1回は東京オリンピックのビデオを見てしまう。
今年の1月2日に放映されたんものだ。
先生が赤の広場を歩きながら1062年の世界選手権決勝リーグの行われた体育館を訪れるシーンから始まった。
先生は私の作ってあげた毛皮を着ていた。
ジーンズ染にして、軽くするため皮面に2mmに小さな穴をあけたもので、アペルタと名付けた。
このシリーズは受けてたくさんの受注をいただいた。

当時の六人の完成されたチームプレーは今とは違っていいものがある。
サーブレシーブからは、二段トスのケースが多いが、
BRの選手全員がフォアードにランニングセットに出ている。

河西さん一人サーブ得点はなかったが、アタックで6本ポイントいている。
6人が全員5~6ポイントしている。
松村さんが攻守び渡ってオールラウンドにすごくいいプレーをしていたと思う。
年齢的にも、他の選手より一番体が動ける時期だったのでは

最後はミシャックのオーバーネットとされているが、彼女はBRからのランニングセッターで
バックプレーヤがネット上のボールを相手に返したという、アウトオブバウンズだと思う。

全体に日本は全員が2段トスを含めてトスがよく、(セットアップは河西さんと松村さん)、ソビエトはブルタコーワ以外は2段トスが下手だったと思う。
ブルタコーワは3セットを通して1本も2段トスミスをしていない。彼女がその後メキシコ、ミュンヘンをセッター役でチャンピオンになったことはさすがと思います。

その後毎年春、日ソ戦が6試合位各地で開かれた、
私は最後の東京大会で試合終了後、待ってブルタコーワにサインをねだった。
試合を終えた彼女の顔は美しく穏やかで感動した。
ロシア語を覚えて手紙を書こうと思い、第2外国語にロシア語を選んだ。
(すぐ頓挫したけど)

子供の頃、祖父母を見て、あんな年になるにはものすごい時間だよ・・・・
なんて思えたが、自分が今67歳、アッという間だった。
それでもまだまだ新しく知ること、理解できること、やれることがあるのは驚きだ。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック